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朴正煕の履歴 前半

朴成彬(박성빈、パク・ソンビン、ぼく・せいひん、1871年6月6日 - 1938年9月4日)は政治家で大韓帝国末期の武官。両班朴永奎の長男[1]高霊朴氏[1]朴正煕の父[1]金鍾泌韓丙起のそれぞれの妻(朴栄玉朴在玉)の祖父。朴槿恵朴槿令朴志晩らの祖父[1]でもある。没落両班出身で一時甲午農民戦争に加担することもした。

東学党の乱(とうがくとうのらん)

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  • 父:朴永奎(1840年2月10日 - 1914年2月24日)
  • 母:星山李氏[2]
  • 弟:朴龍彬[3]
  • 弟:朴一[3]
  • 妻:白南義(1872年9月22日-1949年8月12日)
    • 子:不明(2歳で早世)
    • 子:朴東煕(1895年〜1972年)一説(1895年~1967年 )
    • 子:朴武煕(1898年〜1960年)
    • 女:朴貴煕(1900年〜1978年)一説(1902年〜1974年)
    • 子:朴相煕(1905年9月10日 - 1946年10月6日),共産主義者
    • 子:朴漢生もしくは朴漢煕(1910年〜1928年 )
    • 女:朴在煕(1913年〜1996年9月4日)一説(1912年~1996年 9月4日)
    • 子:朴正煕(1917年11月14日 - 1979年10月26日),大韓民国第5-9代大統領

朴相煕(박상희,パク・サンヒ,ぼく・そうき[1],1906年9月10日 - 1946年10月6日)は、朝鮮独立運動家であり、 ジャーナリストである。 大韓民国の大統領を務めた朴正煕は弟[2][3] であり、政治家金鍾泌は娘(朴榮玉)婿である。

朴成彬白南義の6男2女の三男として生まれた。日本統治時代の朝鮮新幹会1934年朝鮮中央日報の支局長、1935年東亜日報の記者などのジャーナリストとして活動した。日本統治時代の1940年代呂運亨が結成した建国同盟で活動したりした。独立(解放)後は、朝鮮建国準備委員会亀尾支部を創設し、1946年には民主主義民族戦線善山郡(ソンサングン)支部事務局長を引き受けて活動した。大邱十・一事件慶尚北道一帯にデモが広がると、10月1日警察の銃撃を受けて死亡した。 慶尚北道 漆谷郡若木面(ヤクモクミョン)出身で、本貫高霊である。

 

朴 正煕(パク・チョンヒ、박정희1917年11月14日 - 1979年10月26日)は、韓国政治家軍人

日韓併合後の朝鮮半島朴成彬白南義の末っ子として生まれる。朝鮮名では朴正煕(パクチョンヒ)、日本名では高木正雄(たかぎまさお)と名乗った[4]大邱師範学校経て学校教師を務めていたが、やがて軍人を志して同じく日本の影響下にあった満州国陸軍軍官学校士官学校)に志願入隊する。卒業後は成績優秀者が選抜される日本陸軍士官学校への留学生となり、第57期生として日本式の士官教育を受ける。

 

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陸鍾寛(ユク・チョングァン、육종관、1893年1894年?)6月13日 - 1965年12月26日)は、大地主陸用弼の子で、5人兄弟の末っ子。本貫は沃川である。

民主共和党の国会議員を務めた陸寅修陸英修の父であり、1885年生まれの8歳年上の甥陸定洙[1]は兄の陸鍾允の息子である。

 

陸 英修(ユク・ヨンス、1925年11月29日 – 1974年8月15日)は、第5~9代大韓民国大統領朴正煕の妻で、韓国史上3人目のファーストレディ1963年12月17日 – 1974年8月15日)である。大韓民国第18代大統領の朴槿恵は長女、EGテック会長の朴志晩は長男である。

忠清北道沃川郡陸鍾寬・李慶齡夫妻の間に1男3女の次女として生まれた。培花高等女学校(現在の培花女子高等学校)を卒業した後、1950年に、当時陸軍中佐だった朴正煕と結婚し、1男2女をもうけた。

 

朴正煕は金好南が大嫌いで、女の子1人産ませたものの、それっきり金浩南の前からは姿をくらまし、梨花女子大生だった李現蘭のところに出入りしていた(陸軍士官学校教官であるという身分を利用して、梨花女子大の女子寮に出入りしていた)といいます。

朴正煕を将来有望な若手将校として高く評価していた李現蘭の親族に対する体面を繕うために、金浩南との婚姻関係を隠したまま結婚式を挙げるという暴挙を行っています。
金好南との婚姻関係が存在することが後にバレて、李現蘭は逃げ出し、金浩南も家出し、金浩南の父親からは、二度と結婚できないようにと離婚を認めないという扱いを受けています。

この頃の正煕は、親しい部下の下宿を訪ねては、べろんべろんに酔いつぶれ、正体もなく泣いていたといいます。

梨花女子大女子寮出入事件と、李現蘭との重婚事件のせいで、朴正煕の信用はガタ落ちでしたが、朴正煕という人は運が強い。
積み重なった悪評を吹っ飛ばす事件が勃発しました。
朝鮮戦争です。この戦争で甚だ多くの犠牲者が出た関係で、戦争前の醜聞など、どうでもよくなってしまいました。

三番目の妻の陸英修と結婚したのはそんな時期です。

 

陸英修が両親の反対を押し切り、重婚事件を起こした朴正煕に、2人の先妻との離縁を迫り、結婚を迫った(もうムチャクチャでんがな・・・)

陸英修は、朴正煕の上官の陸鍾寬の娘で、朴正煕が女子寮に出入りしていた梨花女子大出身。比較的裕福であった陸鍾寬邸の家産の管理を一手に引き受け、仕事上の成り行きで(わりと公私混同が横行する韓国特有の事情で)陸軍にも出入りしていたようです。

朴正煕が陸英修をみつけたというより、陸軍に出入りしていた陸英修が目敏く出世株の朴正煕に目をつけたというのが真相のよう。
それまで、女性から押し切られるという経験が全くなかった朴正煕は、情熱的に迫る陸英修にあっというまにのぼせあがり、結婚することに。

釜山の影島で結婚の契りを交わすにあたって、過去の醜聞の件もあり、なかなか気持ちの踏ん切りがつかなかった朴正煕は、酒を飲んで酔っ払って結婚の申し込みに行ったという逸話がのこっています。
噂では、同僚が気を利かせて、気の小さな朴正煕と陸鍾寬との間をとりもって、「酒を飲ませてでも連れて来い」との言質を陸鍾寬からとったということのようです。

陸鍾寬も、朴正煕の醜聞を充分に把握した上での許婚だったため、そのとき邪魔だった金浩南の戸籍の処理に協力しています。

 

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