金 鍾泌
金 鍾泌
金 鍾泌(キム・ジョンピル、きん しょうひつ[2]、1926年(大正15年)1月7日 - 2018年6月23日[3])は、大韓民国の政治家。忠清南道扶余郡出身[4]。本貫は金海金氏、キリスト教徒[5]。号は雲庭(ウンジョン、운정)。略称は「JP」。金泳三(YS)・金大中(DJ)とともに韓国政治史上に三金時代を築いた。妻は朴正煕の姪・朴栄玉(パク・ヨンオク、박영옥)。愛称はJPK。韓国のマスコミがJFKをもじってつけたもの。
35歳だった1961年に5・16軍事クーデターを朴正煕とともに主導し、朴正煕政権誕生の立役者となった。以降、朴正煕政権で初代中央情報部 (KCIA) 長、国務総理(首相)など要職を歴任。1979年の朴正煕暗殺以降は議会政党指導者として有力政治家でありつづけた。1997年には、朴正煕の最大の政敵であった金大中との連合(DJP連合)により大統領選挙での金大中の当選に貢献し、翌1998年に発足した金大中政権でふたたび首相を務めた。政治姿勢は自らの主義主張を前面に出していくタイプではなく、韓国の政治家としては珍しい和を重視する調整型タイプの政治家であり、内外両面で大きく揺れた1960年代~1990年代の韓国政治において内外面において重鎮として先頭に立ち問題の沈静化に積極的に動いた。
朴正煕政権、金泳三政権、金大中政権の誕生に大きく貢献し、朴正煕政権と金大中政権では首相、金泳三政権では与党の党首を務めたが、自らは大統領になることはなかった。このため、「永遠の2人士(ナンバー2)」「キングメーカー」と呼ばれた[6]。国会議員も9期(第6〜10・13〜16代)を務めた[5]。また、出身地の忠清道地域(特に大田・忠清南道)に強い影響力をもったことから、「忠清の盟主」と呼ばれた。
1978年のアメリカ下院による米韓関係に関する報告書(いわゆる「フレーザー委員会最終報告」)では、KCIAの創設者で、政治的意図をもって統一教会を組織したと名指しされている[16]。
朴正煕の履歴 前半
朴成彬(박성빈、パク・ソンビン、ぼく・せいひん、1871年6月6日 - 1938年9月4日)は政治家で大韓帝国末期の武官。両班朴永奎の長男[1]。高霊朴氏[1]。朴正煕の父[1]。金鍾泌、韓丙起のそれぞれの妻(朴栄玉、朴在玉)の祖父。朴槿恵、朴槿令、朴志晩らの祖父[1]でもある。没落両班出身で一時甲午農民戦争に加担することもした。
東学党の乱(とうがくとうのらん)
朴相煕(박상희,パク・サンヒ,ぼく・そうき[1],1906年9月10日 - 1946年10月6日)は、朝鮮独立運動家であり、 ジャーナリストである。 大韓民国の大統領を務めた朴正煕は弟[2][3] であり、政治家金鍾泌は娘(朴榮玉)婿である。
朴成彬と白南義の6男2女の三男として生まれた。日本統治時代の朝鮮に新幹会、1934年、朝鮮中央日報の支局長、1935年、東亜日報の記者などのジャーナリストとして活動した。日本統治時代の1940年代呂運亨が結成した建国同盟で活動したりした。独立(解放)後は、朝鮮建国準備委員会亀尾支部を創設し、1946年には民主主義民族戦線善山郡(ソンサングン)支部事務局長を引き受けて活動した。大邱十・一事件で慶尚北道一帯にデモが広がると、10月1日に警察の銃撃を受けて死亡した。 慶尚北道 漆谷郡若木面(ヤクモクミョン)出身で、本貫は高霊である。
朴 正煕(パク・チョンヒ、朝: 박정희、1917年11月14日 - 1979年10月26日)は、韓国の政治家、軍人。
日韓併合後の朝鮮半島に朴成彬と白南義の末っ子として生まれる。朝鮮名では朴正煕(パクチョンヒ)、日本名では高木正雄(たかぎまさお)と名乗った[4]。大邱師範学校経て学校教師を務めていたが、やがて軍人を志して同じく日本の影響下にあった満州国陸軍軍官学校(士官学校)に志願入隊する。卒業後は成績優秀者が選抜される日本の陸軍士官学校への留学生となり、第57期生として日本式の士官教育を受ける。
- 1917年11月14日 - 生誕。
- 1932年3月 - 亀尾公立普通学校卒業
- 1932年 - 大邱師範学校入学 。
- 1936年 - 最初の結婚。
- 1937年3月20日 - 大邱師範学校尋常科を70人中69位で卒業。
- 1940年4月 - 満州国軍軍官学校に240人中15位で入学。
- 1942年3月23日 - 満州国軍軍官予科を首席卒業。
- 1942年 - 日本陸軍士官学校の留学生課程入学(57期相当)。
- 1944年
- 1945年8月 - 満州国軍中尉で終戦を迎える。
- 1946年9月 - 国防警備隊士官学校入学(2期)。
- 1946年12月14日 - 国防警備隊士官学校卒業。国防警備隊少尉に任官(軍番10166番)。第8連隊付。
- 1947年2月 - 38度線警備中隊第4警備隊長。
- 1947年7月21日 - 第8連隊作戦参謀代理。
- 1947年8月14日 - 第1連隊中隊長。
- 1947年9月27日 - 大韓民国陸軍大尉。警備士官学校生徒隊長。
- 1948年8月21日 - 大韓民国陸軍少佐。
- 1948年12月28日 - 陸軍本部戦闘情報課長。
- 1948年 - 麗水・順天事件発生後、南朝鮮労働党員であることが粛軍運動で発覚し、逮捕される。
- 1949年4月 - 軍法会議で執行免除の無期懲役、軍籍剥奪され、情報局嘱託となる。
- 1950年 - 朝鮮戦争勃発により、大韓民国陸軍少佐戦闘情報課長を復命。
- 1950年 - 陸英修と再婚。
- 1950年9月15日 - 大韓民国陸軍中佐。陸軍本部輸送作戦指揮官。
- 1950年10月25日 - 第9師団参謀長。
- 1951年4月15日 - 大韓民国陸軍大佐。
- 1951年5月25日 - 陸軍情報学校校長。
- 1951年12月10日 - 大韓民国陸軍本部作戦教育局長。
- 1953年2月16日 - 第2軍団砲兵司令官。
- 1953年5月9日 - 第3軍団砲兵司令官。
- 1953年11月25日 - 大韓民国陸軍准将。
- 1954年1月17日 - アメリカ陸軍砲兵学校留学。
- 1954年7月1日 - 第2軍団砲兵司令官。
- 1954年9月18日 - 教育総本部砲兵監兼砲兵学校校長。
- 1955年7月1日 - 第5師団長。
- 1957年3月20日 - 陸軍大学卒業。
- 1957年3月30日 - 第6軍団副軍団長。
- 1957年9月1日 - 第7師団長。
- 1958年3月1日 - 大韓民国陸軍少将。
- 1958年6月17日 - 第1軍参謀長。
- 1959年7月1日 - 第6管区司令官。
- 1960年1月21日 - 陸軍軍需基地司令官。
- 1960年12月15日 - 第2軍副司令官。
- 1961年5月16日 - 5・16軍事クーデターを起こし、国家再建最高会議議長に就任。
- 1961年8月10日 - 大韓民国陸軍中将。
- 1961年11月1日 - 大韓民国陸軍大将。
- 1961年11月 - 訪米の途に東京で30時間ほど滞留(朴は執権期間に一度も公式訪日しなかった、最初にした韓国大統領は全斗煥)[7]。
- 1962年3月24日 - 大統領権限代行[8]。
- 1963年10月15日 - 第5代大韓民国大統領に就任。
- 1965年6月22日 - 日本の佐藤栄作内閣総理大臣との間で「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」(日韓基本条約)を署名。
陸鍾寛(ユク・チョングァン、육종관、1893年(1894年?)6月13日 - 1965年12月26日)は、大地主陸用弼の子で、5人兄弟の末っ子。本貫は沃川である。
民主共和党の国会議員を務めた陸寅修、陸英修の父であり、1885年生まれの8歳年上の甥陸定洙[1]は兄の陸鍾允の息子である。
陸 英修(ユク・ヨンス、1925年11月29日 – 1974年8月15日)は、第5~9代大韓民国大統領・朴正煕の妻で、韓国史上3人目のファーストレディ(1963年12月17日 – 1974年8月15日)である。大韓民国第18代大統領の朴槿恵は長女、EGテック会長の朴志晩は長男である。
忠清北道沃川郡で陸鍾寬・李慶齡夫妻の間に1男3女の次女として生まれた。培花高等女学校(現在の培花女子高等学校)を卒業した後、1950年に、当時陸軍中佐だった朴正煕と結婚し、1男2女をもうけた。
朴正煕は金好南が大嫌いで、女の子1人産ませたものの、それっきり金浩南の前からは姿をくらまし、梨花女子大生だった李現蘭のところに出入りしていた(陸軍士官学校教官であるという身分を利用して、梨花女子大の女子寮に出入りしていた)といいます。
朴正煕を将来有望な若手将校として高く評価していた李現蘭の親族に対する体面を繕うために、金浩南との婚姻関係を隠したまま結婚式を挙げるという暴挙を行っています。
金好南との婚姻関係が存在することが後にバレて、李現蘭は逃げ出し、金浩南も家出し、金浩南の父親からは、二度と結婚できないようにと離婚を認めないという扱いを受けています。
この頃の正煕は、親しい部下の下宿を訪ねては、べろんべろんに酔いつぶれ、正体もなく泣いていたといいます。
梨花女子大女子寮出入事件と、李現蘭との重婚事件のせいで、朴正煕の信用はガタ落ちでしたが、朴正煕という人は運が強い。
積み重なった悪評を吹っ飛ばす事件が勃発しました。
朝鮮戦争です。この戦争で甚だ多くの犠牲者が出た関係で、戦争前の醜聞など、どうでもよくなってしまいました。
三番目の妻の陸英修と結婚したのはそんな時期です。
陸英修が両親の反対を押し切り、重婚事件を起こした朴正煕に、2人の先妻との離縁を迫り、結婚を迫った(もうムチャクチャでんがな・・・)
陸英修は、朴正煕の上官の陸鍾寬の娘で、朴正煕が女子寮に出入りしていた梨花女子大出身。比較的裕福であった陸鍾寬邸の家産の管理を一手に引き受け、仕事上の成り行きで(わりと公私混同が横行する韓国特有の事情で)陸軍にも出入りしていたようです。
朴正煕が陸英修をみつけたというより、陸軍に出入りしていた陸英修が目敏く出世株の朴正煕に目をつけたというのが真相のよう。
それまで、女性から押し切られるという経験が全くなかった朴正煕は、情熱的に迫る陸英修にあっというまにのぼせあがり、結婚することに。
釜山の影島で結婚の契りを交わすにあたって、過去の醜聞の件もあり、なかなか気持ちの踏ん切りがつかなかった朴正煕は、酒を飲んで酔っ払って結婚の申し込みに行ったという逸話がのこっています。
噂では、同僚が気を利かせて、気の小さな朴正煕と陸鍾寬との間をとりもって、「酒を飲ませてでも連れて来い」との言質を陸鍾寬からとったということのようです。
陸鍾寬も、朴正煕の醜聞を充分に把握した上での許婚だったため、そのとき邪魔だった金浩南の戸籍の処理に協力しています。
レーニンの履歴 前半
1870年、ロシア帝国シンビルスク(現:ウリヤノフスク)で中流階級の教育者の家庭に生まれた。
1887年、皇帝暗殺計画に関与した兄が処刑されたのちに革命思想に染まり、 17歳頃
1893年にはサンクトペテルブルクに移り、マルクス主義活動家となったが、
1897年に扇動罪で逮捕され、シベリアの寒村での流刑に処された。 重罪で逮捕、流刑 27歳頃
刑期が終わると西ヨーロッパに移り、ロシア社会民主労働党の幹部として頭角を現したが、同党は1903年にレーニン派のボリシェヴィキとマルトフ派のメンシェヴィキに分裂した。1914年に勃発した第一次世界大戦については資本家による帝国主義戦争と定義し、戦争を全ヨーロッパ的なプロレタリア革命へと転化することを提唱した。1917年の二月革命で帝政が崩壊し、ロシア臨時政府が樹立されると、封印列車で帰国したレーニンはボリシェヴィキの指導者として反臨時政府運動を展開し、十月革命によって体制を転覆させ、自身が首班となるソビエト政権を樹立した。